ショパン
エチュード
Chopin Etudes
ショパンは練習曲として作品10と作品25の各12曲
及び「3つの新しい練習曲」を作曲した。
当時ピアノの為の練習曲集としては
チェルニー、クレメンティ、モシェレスなどの作品が広く使用されていて
ショパンも幼い頃からこれらの練習曲集で習練をつんだ。
しかし、彼の父親によると、幼い頃のショパンは技巧的な練習をするよりも
即興演奏や作曲を好んだようで
「テクニックの練習にはお前は余り時間をかけず
指よりも心の方が忙しい様だね。
普通の人は鍵盤と何日も格闘するのに、お前は同じ練習を僅かな時間で済ませてしまう。」と書いている。
もっとも成長した後には、規則的な練習に重きを置くようになり
より高度な練習曲集の必要性を感じ始めた。
また、バッハの「インヴェンション」や「平均律クラヴィア曲集」を
技巧の練習と芸術性を兼ね備えた理想的な曲集と考えていた。
1829年の5月、当時全ヨーロッパを音楽で席巻したパガニーニがワルシャワを訪れ、市民を熱狂させた。
彼は19世紀の音楽家、特にリスト、シューマン、ブラームスに多大な影響を与えたが、ショパンも例外ではなく
その超絶技巧が生み出す新しい音楽の可能性に気付いていた。
そして彼の音楽を探求すべく「パガニーニの思い出」という小品を書いたが
より強い影響が現れる「練習曲集」のスケッチを、その年の秋から始めた。
この曲集は1829年から1832年に渡って作曲された。この時期のショパンはワルシャワ音楽院を卒業し
2度のウィーン演奏旅行での成功と失敗
パリへのデビューなど彼の生涯において最も変化に富んでおり
作曲の上でも数多くの作品を生んでいる。
当初ショパンは曲の配列をフンメルなどの先例に習い
練習曲集に5度圏順の配列を考えていたと思われるが(前奏曲集作品28で実現したが)
結果的にはこの配列を採らず、全曲を通して演奏するとき、技巧的な効果の挙がる配列となった。
すなわち各曲の目的を単純化して書くと、右手、右手、両手のレガート、左手、右手、両手のレガート、右手、右手、左手、両手、両手、左手となり、連続演奏する場合も負担が一部分に集中しないように配列されている。
言い換えれば、全曲を通して演奏されることによってより効果が増すのである。
エチュード 作品10について
第3番が有名な「別れの曲」である。全作品の中で最も美しい旋律と言われる。
第5番が「黒鍵のエチュード」である。右手の黒鍵のみの旋律が素晴らしく優美である。
第12番が「革命のエチュード」である。1831年ウィーンからパリへの旅行の途中、
ロシア軍のワルシャワ占領の報を聞いたショパンがその怒りを鍵盤に向ってぶつけたというエピソードが残っている
エチュード 作品25について
第1番が「エオリアン・ハープ」である。通り抜ける風によって様々に音色を変えるというエオリアン・ハープを思わせる。
第9番が「蝶々のエチュード」である。ヒラヒラと蝶々が舞う曲想からなずけられた。
第11番が「木枯らしのエチュード」である。風の吹き荒ぶ冬の景色を思わせることからこの名で呼ばれる。
第12番が「大洋のエチュード」である。両手のアルペッジョが海の波のうねりのように上下することからなずけられた。