ノクターン 第20番 嬰ハ短調

「レント・コン・グラン・エスプレッショーネ」

本来はノクターンとして書かれたものではなく、姉のルドヴィカのために、協奏曲第2番を練習する手引きとして作曲されたと言われる。

その後、ルドヴィカが「ノクターン風のレント」として作品目録に載せたため、ノクターン曲集に収められた。

初期の作品とは思えないくらい深い情感に溢れている。

曲はほとんど即興的に作られたもので、

第2部には協奏曲第2番のテーマが4拍子に変形されて現れる。

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ショパン

優しさ
繊細さ

溢れている

作品

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2000年5月18日 | カテゴリー : classical music | 投稿者 : ☆LOVE☆

ショパンのノクターン第1番-第3番

ノクターン

「ノクターン」という形式は、アイルランド出身のジョン・フィールド(1782-1837)が創作したものと言われている。

J・フィールドは、大変探究心のある作曲家で、また彼自身も優れたピアニストだった。

新しいピアノ音楽を求め、巧みなペダリングを駆使して、パステル画のような輪郭をぼかした音色を作り出し、ベル・カント唱法をピアノに採り入れ、左手の簡素な伴奏に乗せて歌うノクターンを作り出した。

その甘美な旋律と、技巧的に容易なことから、すぐにヨーロッパ中のピアノ愛好家に広まったのである。

ショパンは17歳から他界する3年前に至るまで、ほぼ全生涯に渡って21曲ノクターンを作曲したが、その大半はパリで演奏活動を行うようになってからのものであり、聴衆の求めに応じて数多くの作品を作り出した。

彼のノクターンはフィールドの影響を受けて書かれ、特に初期の作品はその模倣の域から脱しておらず、ところどころに現れる和声や転調などにショパンらしさが伺える程度である。

しかし、中期以降の作品では、フィールドのようなベル・カント唱法のピアノ音楽への導入といった域を越えて、より創造的な新しいピアノ音楽へと発展していった。

ノクターンは、バラード、スケルツォ、あるいは前奏曲集といった作品とは異なり、必ずしもショパンの芸術的欲求の所産とは言えない。

そのほとんどの作品はパリのサロン・ミュージックとして書かれ、比較的演奏が容易なことから、貴族の夫人や令嬢に愛好された。しかしそこには、他の限定された形式にはない彼の素直な情感が込められているのである。

☆第1番 変ロ短調 作品9-1

作品9のノクターン集は、ショパンがワルシャワからパリへの旅の途中で作曲したものである。

パリでのデビューで成功を果たしたショパンは、一躍社交界の寵児となり、貴族の夫人や令嬢の弟子も増え、出版業者も彼の新しい作品の出版を望み始める。

そのような状況のもとに、すでに旅の途中で作曲した「ノクターン集 作品9」が出版されたのだが、たちまちサロンの人気曲になったのである。

第1番は、絶えず左手で繰り返される6連符に乗せて、表情豊かなメロディーを持った第一部と、オクターヴで歌われる甘美な第二部から成る。

有名なのは次の第2番だが、より優れているのは第1番である。

☆第2番 変ホ長調 作品9-2

ショパンのノクターンといえばこの曲を指すほど有名な曲で、いろいろなアレンジによってクラシック音楽愛好家のみならず、広く一般の人々にも知られている。第1番と同様、フィールドの強い影響は否定できないが、親しみやすい感傷的なメロディーが人を惹きける魅力を持つ。

ロンドともとれる形式をとり、冒頭の旋律が姿を変えて繰り返される間に、他の旋律が挿入される。

☆第3番 ロ長調 作品9-3

同じ作品9でありながら前の2曲とは異なり、従来のノクターンから一歩踏み出し、快活性、諧謔性が表面に現れている。規模も拡大され、形式もより複雑となった。

第一部はスケルツァンドと指定され、半音階を生かした主題と叙情的な主題から成る。

続く第二部は2分の2拍子のアジタートに変わり、第一部との対比を明確にしている。

献呈 カミーユ・プレイエル夫人

2000年5月18日 | カテゴリー : classical music | 投稿者 : ☆LOVE☆

ショパン -ピアノ協奏曲-

ショパン
CHOPIN

ピアノ協奏曲 第1番 ホ短調 ☆作品11☆

ショパンの管弦楽を伴うピアノ作品は,2曲の協奏曲をはじめ、

「クラコヴィアーク」作品14

「アンダンテ・スピアナートと華麗なる大ポロネーズ」作品22

「ラ・チ・ダレム」の主題による幻想曲作品13

があるが、いずれも彼の少年期から青年期にかけて、
つまり祖国ポーランドにいた頃に書かれている。

従ってウィーンからパリに出て以後は、ピアノ独奏のための作品に専心することになる。

2曲のピアノ協奏曲は出版の順序によって、番号が逆転している。

すなわち第2番と呼ばれているヘ短調の作品21は、

この第1番の前年の1829年に書かれていたにもかかわらず、

出版が1836年と大幅に遅れたためで、

反対に1830年に書かれたこの第1番は、

1833年と一足先に出版されたので、順番が逆になる結果になった。

実際に聴き比べてみると、ショパンにとって19歳から20歳という年齢の推移は、いかに実り豊かなものであったかが分かるだろう。

ショパン自身も手紙の中で、この協奏曲のアレグロ楽章が、

ヘ短調協奏曲のそれよりも、一層優れていると説く友人の印象を書き、

フィナーレもこの曲の方が美しいと、人々から受け取られたことなどを伝えている。

この協奏曲は故郷ポーランドと訣別する寸前に作曲されたものだけに、ポーランドに対する惜別の情が込められている。

同年の5月15日付けのワルシャワから、親友のティトゥス・ヴォイチェホフスキに宛てた手紙の中でも、

「新しい協奏曲のアダージョはホ短調だ。ここで僕は、力強さなどを求めはしなかった。むしろロマンチックで静かな、なかば憂鬱な気持ちでそれを作曲した。

楽しい無数の追憶を喚起させる場所を眺めるような、印象を残さなければならない。例えば、美しい春の月明かりの夜のような・・・・。」
と述べている。

初演は1830年の10月11日

ショパンの告別演奏会で、作曲者自身がソロを弾いて行われたが、この会にはショパンの初恋の人としても知られる、ソプラノ歌手のコンスタンティア・グワドコフスカも賛助出演して、ロッシーニのカヴァティーナをうたったという。

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ショパンは、ポーランドを
離れて
淋しかったであろうという
気持ちが
ひしひしと
伝わってくる
名曲

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2000年5月18日 | カテゴリー : classical music | 投稿者 : ☆LOVE☆

シューマン-Schumann-

シューマン-Schumann-

☆子供の情景☆ ☆-作品15-☆

「《子供の情景》は、若い心を保った大人たちのための曲集である。」(K.H.ヴェルナー)

シューマンその人は、1838年の3月18日、クラーラに宛てた手紙で次のように書いている。

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「今、ぼくは音楽いっぱいで張り裂けそうな気がすることがよくあります。
何を作曲したか忘れないうちに書いておきますとーいつかきみはぼくに言ったでしょう。
『ときどき、あなたは子供のように思えます』って。この言葉の余韻のなかで作曲しました。
つまり、きみの言葉がまるで魔法の筆のような働きをして、30ものちっちゃなかわいいやつが書けたのです。
そこから12曲ほど選び出して《子供の情景》と名付けました。
きみもきっと喜んでくれるでしょう。
でも、名ピアニストであることは,忘れて下さいよ。」

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シューマンのピアノ作品全体の中でも,この曲集の芸術的な、あるいは教育的な価値は極めて高いものがある

作品11のピアノ・ソナタから,作品17の幻想曲までの7曲は、押し並べて最高級の作品といえるが、なかでも作品12の《幻想小曲集》と、この作品15とは、激情の嵐に囲まれた静かな孤島のようにまろやかな幻想を保っている

とくに、シューマン自身の評価によれば、《謝肉祭》作品9やピアノ・ソナタなどの<荒々しいやつら>から、作品15以後の形式、内容ともにまとまった性格のものへと自分の様式は円熟していったと考えていたので、この《子供の情景》も《クライスレリアーナ》や《幻想曲》と並ぶ自分の最高傑作のなかにいれていたのだった

この評価は後の世で逆の側に揺れ返したところもあるが、
シューマン在世の時代から前世紀の末にかけて、《子供の情景》はロマン派ピアノ小曲集の模範的な第一の域にさえ推されることが多かった。
作曲家の貢献は、いろいろな尺度ではかることができるが、次の世代に与えるものがどうだったかというのも重要な尺度である
子供のためによい音楽を書くこと、技術だけではない音楽の栄養を次の世代に与えたという点では、チャイコフスキー(1840-1893)もドビュッシー(1862-1918)もシューマンの影響をこうむっている

シューマンの《トロイメライ》(本作品7番)をはじめとして、《子供のためのアルバム》からの《楽しき農夫》などを考えてみても、世界の子供たちで、その恩恵に浴したものの総人口は大変なものがあるだろう

この領域で、シューマンの音楽は、例えばワーグナー(1813-1883)の巨大な楽劇とはまったく別の貢献をなしている

最初に挙げた手紙の内容から、シューマンが初め30点ほどのスケッチをつくり、そこから意にかなうものを選び出したことがわかる

選出の基準は全体の有機的な統一にあっただろう

それは選ばれた諸曲の標題のつながり(―隠れた筋があるような、ないような-)または主題のそれぞれがひとつの統一動機から有機的に導き出されているという事実からも明らかだ

その統一動機は、例えば第1曲の旋律に明らかになっている。

出版は1839年3月ライプツィヒ、ブライトコプフ・ウント・ヘルテル社。
この曲のばあい、スケッチも自筆稿も統一的な形で残存していない

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シューマンを聞きながら
心しずめて

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2000年5月18日 | カテゴリー : classical music | 投稿者 : ☆LOVE☆

ショパン-CHOPIN-

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フレデリック・ショパン(1810-1849)

ワルシャワ聖十字架教会の主柱に
ショパンの心臓が、納められたつぼが
埋め込まれている

ショパン作曲

24のプレリュード 作品28

第4番 ホ短調

カラソフスキーによって宝石にたとえられた作品である。
左手の、半音で降下する伴奏和音に乗って、単純だが絶望的な感情を込めた旋律が2度現れるが、2度目に現れるときは後楽節が大きく変化されてクライマックスを築く

1849年のショパンの葬儀のときには、この曲がオルガンで演奏された

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2000年5月18日 | カテゴリー : classical music | 投稿者 : ☆LOVE☆